2011/05/26
5/22 とうとうこの日がやってきた。東日本地震での被災地への支援の一環として石川県柔道整復師会は石川県赤十字社より医療ボランティアの依頼を受けこの、5/23〜5/27までの5日間、宮城県東松島地区〜石巻までを網羅、我々の柔道整復業としての医療を提供を行う予定である。
平成23年5月 22 日(日)東日本大震災におけるボランティア活動の為、我々第1班は午前 10:00 集合、 10:30 出発。会員数名に見送られ会館を旅立った。
車中では士気も高く被災地で柔道整復師に何が出来るのか、何をしなくてはならないのか等、議論しまた、理想を語り合い、あっという間の7時間であった。仙台に到着した時は既に PM6:00 となりここで明日への英気を養う。明日からの活動は我々に続く 2 班 3 班に道を作るのが大いなる使命なのである。そう考えると、興奮しなかなか寝付けない。
朝、眼が覚めレッドクロスのベストを着込む。身が引き締まる思いだ。後に宮城県柔道整復師会の SVM (接骨ボランティア宮城)がコーディネータとなり我々を被災地へ案内した。途中、東松島地区の海辺の町に立ち寄ったがそこは見渡す限り荒涼とした瓦礫の草原だった。海の緩やかな波音が我々の耳を誘い瓦礫は我々の眼を点にさせた。正に奈落の底と言う言葉があてはまる世界に立たされ我々は海に向かって黙礼、 3.11 から2ヵ月半、もう涙しまいと誓ったのに目蓋から零れ落ちる雫を拭う事となった。
我々はまず本隊を上町図書館避難所に拠点を置き被災者のケアにいそしむ事になりました。佐藤先生(リーダー)川本先生、磯松先生、北川先生の4人、第2分隊として東先生と私、岡本の2人、そしてアナリストの金田先生1人(これから行くであろう避難所を回って折衝し分析を担当)の三隊に別れこの東松島地区に散った。
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私の担当した(私と東先生)避難所では規模が小さくアナリストの事前折衝はなく、我々の分隊が直接折衝する事から入った。
そして、こちらでケアをしたい旨を丁寧に伝えるも、なぜかしら横目で見られ、二つ返事で OK が出ない。診察をさせて頂き、必要とあらば治療の一環としてマッサージ等するかもしれないが、機能訓練などで終わるかもしれません。また、赤十字社から依頼を受けてこの地に入っている事等もを伝え 5 分以上も喋り続けやっと「そういうことなら」と、許可が降りた。 早速、問診のため一部屋に入るとそこでも問診すらさせてくれない。そこで、部屋の入り口で施設長に言った通りの説明をもう一度行った。すると一人の被災者が手を上げてくれた。早速問診から診察に入り本来の仕事が出来た。そこでの話の中で、「前に来た人(?療術師?)に膝が痛くてマッサージしてもらったら腰が悪いから痛いんだといって腰をボキボキされて腰が痛くなった。」と、言われた。私たちはこの現状が暫く理解できませんでした。それをきっかけに手を上げてくれた被災者がポツポツと出て来ました。時間が迫り我々はギリギリまで治療を行い笑顔を引き出す事ができ本隊に合流しました。本隊でも良く似た情報があって被災者の傷つくような事や言動が多々あったと聞き及んだ。
11 後に解った事だが、そういった被害を受けられた被災者が大変多く、自己満足のみの療術をして行く輩が如何に多いのか思い知らされました。
それでも我々は柔道整復師としての「ほねつぎ」としての当たり前の診察をし、当たり前の治療をし、明日からは自分自身で治療を続ける方法論を説き、笑顔を絶やさず、笑顔をもらい石川県の柔道整復師の気概をチーム全体で被災地のみなさんに伝える事が出来たのは大きな意義があるのではないかと自負しています。また、第2班、第3班にもこれらの申し送りを徹底し大きな成果を持ち帰る事を信じてやみません。
私は、3/25の文で述べた通りこの話が来たときに真っ先に手を上げました。そして第1班〜3班まである先遣隊としての第1班に任ぜられました。名誉とは思いながら、私自身の経験を被災者にどれだけ伝えられるか、心配で仕方ありませんでしたが、小矢部の話、被災した経験のある私自身の話を多くの人に聞いていただいて「そうやって今、あなた達の前に来ているのです。」「上を向いて涙をこらえて、信じて前を向いていれば必ず再興します。」と、言い切ってきました。
本当に私は言い切るほどまでに信じております。どんなに苦難が立ちはだかろうとも前を向いて進み再興の二文字を勝ち取る事を、、、、
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任務を終えて帰り路につく。5/24 23:10ごろ(会館前)
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